当ホームページをご訪問くださいました皆様が当社の本音をご理解いただくためにと思い、
少々古くなりましたが日本工業新聞出版株式会社様のご好意により雑誌<光アライアンス>
から企業インタビュー記事を転載させて頂くことにしました。
 最後までお読みいただければ幸いです。


誌<光アライアンス>1993年9月号より


     
     企業インタビュー 光最前線 ユーカリ光学研究所に聞く


  光産業を支えているのは長年の経験と実績をベースに職人芸とも言うべき技術を持った数多くの開発型の中小企業であるといっても過言ではないだろう。
 今回は、光学機器システムの開発受託を専門とする㈱ユーカリ光学研究所の油大作社長にスポットを当て企業利益のみを追従しない同氏の経営哲学や体験を語っていただいた。



 まずは貴社の生い立ちとその事業内容からご紹介いただけますか。

 東京光学機械(現 トプコン)を退社してこの会社を始めたのが1980年になりますが、最初はコンサルタントでやっていけると甘く考えていました。レンズ設計にしてもそれなりの体験は持っていましたから、どうぞ相談にいらしてくださいということで旗を揚げましたが、随分と色々な方がお見えになった。

 ところが、1ヶ月しても2ヶ月しても会社として家賃を払う、電気代を払うということができないんですね。こちらはビジネスのつもりで対応しているのに最後は「ご指導ありがとうございました」と菓子箱だけ持ってきて帰ってしまう。これだと仕事に全くならないのですね。当たり前のことと言ってしまえばそれまでなのですが、日本人には人にものを聞いてお金を払うという習慣ないのだということに改めて気がついたのです。これは考えが甘かった、というのでビジネスをするには物まで作って提供するということをしなければ駄目だという結論になりました。
 相談を受けるだけではなく、問題になっている物を実際に開発製造して初めて商売になるのです。試作をやりだすようになってようやく軌道に乗りました。役に立つ技術を提供するには物という形にしないと駄目なのですね。

 ユーカリ光学という社名の由来なのですが、私は以前に千葉県の松戸という町に住んでいまして、その松戸市の市の木に指定されているのがユーカリだったのです。オーストラリアにボックスヒルという町があって松戸市とは姉妹都市の関係なのですね。松戸市長がボックスヒルを訪れた時に非常に緑が多いのにビックリして「あの木は何の木ですか」と聞いたところユーカリの木だった。
 ユーカリは非常に成長が早い、1年に1メートル位伸びる。それに環境特性に富んでいる。空気を呼吸する気孔が普通の木の葉は葉裏についているのにユーカリの葉はそれが両面にあるのです。それだけに悪い空気でも十分に成長する。 成長が速くて環境が悪い所でも持ちこたえられる企業になろうというのでユーカリ光学と名づけました。

 もう一つ理由がありまして、業界のジンクスでブランドをローマ字にした時に最初の文字と最後の文字が同じ会社は伸びるというのがある。NIKONもXEROXもAGFAもそうでしょう。ユーカリも本当のスペルはEUCALYなのですがYUCALYと書くようにしました。技術屋らしからぬ発想ですが、ジンクスを担いだわけなのですよ。さらにもう1つコジツケがありましてね。中国語で訳しますと’油加利’と書くのです。つまり、’油’を’加’えて’利’益を得る、となるのです(笑)。これは私の友人が考えてくれたのですがね。


 油社長は中国語が堪能ですが、どういうことから始められたのでしょうか。

 日本人はもっと中国語を学んだほうが良いと思いますよ。私は継続が文化だと思っています。中国語は中国文化を守ろうという意思がそこにある。先人が作ってくれた文化は絶対に壊したり捨てたりするものではない。
 日本では戦後、日本語をローマ字やカナ文字にしてしまおうという考えが強かった。なまじ漢字があるから近代化が遅れるという貧困な発想ですよね。中国語にはカナ文字がありませんね。そうすると、外来語の表記ができないので外来語は中国語に直すのです。どう直すかというと、意味か音をとるのです。
 例えば、コカコーラは可口可楽、レーザーは激光(台湾では雷射)と書きます。なかなかシャレていますよね。つまり外来語であろうとそのまま鵜呑みにすることはせず、必ず中国語に直して使おうという意識があるのです。こういう考え方が今もって崩れていない。これが日本人にもっと見習ってほしいところだと思います。簡単に異国の文化に同化しないということです。もちろん、日本語は日本語で非常に秀れた言語ですが。


 ユーカリ光学の事業内容をもうちょっと詳しく説明していただけますか。

 非常に説明しにくい会社です。私はこの会社を将来大企業にする気は全くありません。この会社は徹底的にお客である企業の開発における黒子役としてやっていこうと作った会社なのです。名前と実利を考えた時に、私は名前は一切捨ててしまおうと割り切っています。

 例えばこの会社で非常に良いアイデアで新しい開発をやって物ができても、会社の名前は表に出さなくて結構です、お客さん名前で出してくださいという考え方です。黒子役に徹して、仕事をする中にお客様の若い技術屋さんの教育も含まれてくる。もちろん企業として収益を上げなくてはなりませんから、多少高くても他にできない付加価値の高い開発をおこなう。

 それともう一つ、セミナー会社とタイアップしてやってやっている仕事に、もう10年以上続いている「光学技術講座」というのがあるんです。例えば3日間の集中セミナーであるとか、基礎と中級の通信講座などをやっています。これは、企業の利益としては取るに足りないものですが、光業界の底辺のレベルアップにそれなりに貢献しているという信念でやっています。
 
 ちょっと自慢させていただくと、今までの受講生の数が約3千名ですよ。継続は力ですね。こういう底辺のレベルアップという地道な活動は、誰かがやらなければいけないことだと思います。
 会社を作ってすぐに1年かかってテキストを書いて始めましたからもう12年間やっていることになります。こんなに長く続いているセミナーは他にないのではないかと思いますよ。教育という大それた考えでなくても、受講生の頭の中に光学用語が残って、現場でアレルギーを起こさなくて済むだけでも意味があるのではないでしょうか。


 そうしますと、ユーカリのブランドの製品は全くないということですか。


 全くありません。皆さんがこの’油’の能力を’加’えて、ご自身の’利’益にしてくださいということです。あの会社は役に立つ、と言われることが私の願望なのです。
 一般的にベンチャー企業は常に明日をにらんで飛躍しようと考えるのでしょうが、この会社はそうではなくて、常に底辺に沈んでいってみんなの肥やしになろうとという考えでやっているのです。これは当初からの徹底した考えなのです。
 大企業だけが利益を吸い上げるのではなくて、実際に働いている底辺の多くの企業が成長しなければならない。そのためには、もっともっと技術力を持たなければならないのです。これからは益々そうですよ。
 
 あと自慢をさせていただくとしたら、赤外ですね。赤外光学系については自信があります。この会社の売上の3割から4割は赤外関連です。普通の光学系とはちょっと違ったノウハウが要求されますからね。


 お客さんに望む点はございますか。

 そうですね。お客様の窓口になられる方には若い方も多いですから、もっとオープンになっていただきたいですね。こういう開発の仕事をやっていますと、信頼関係が基本になります。その意味でもっと腹を割って相談していただくということが大切ですね。
 
 今の若い方は比較的ですが、対人的な接触の仕方が教育されていないというか、下手です。その結果与えてもらえる技術まで与えてもらえなくなってしまうということがあります。私はこういう性格ですから、相談してもらえば損得関係なく話しますから。
 例えば人に物を習う時に高飛車にくる人がいます。挨拶ができない。通信教育をやっていますと、テキストの何ページの内容がよくわからないからわかるように説明しろ、といった注文をよこす。こういう人が多いですよ。
 この場合の返事は「わかるまで読み返してください」となります。表現力が足りないのですね。
 自分ではこうやってみたけれども、どこがどのようにわからない、と言ってくださればこちらも対応できるのですけれど。もっと若い人はこもっていないで外に出て、年寄りを捕まえて、接触することになれないと駄目ですね。若い人からの相談で儲けようなんて私は思っていないのですから。


 話は戻りますが、油所長は台湾での活動も盛んにおやりになっているとお聞きしていますが。

 そうですね。去年も台湾政府の招聘で赤外技術の講演に行ってきたのですが、場所は工業技術研究院なのですが本番になって、今日の講演は中国語でやりますって言うんですよ。まあ何とかやっつけましたけども参りました。
 40歳過ぎてから中国語を習い始めまして、3年間本当に熱中したんですね。テニスと中国語だけは会社の仕事の次に好きだと言っているのですが、本当に一生懸命やりましたね。凝り性なんですかね。


 話が振り出しに戻るようで恐縮ですが油社長ご自身のバックグラウンドについてお聞きしてもよろしいですか。

 私はずっと光学設計の畑を歩いてきましたが、もう35年近く前の話になりますが、三協精機がヤシカと並んで三協エイトという8mmカメラを立ち上げて成長した時期に、当時日本光学を定年になられた芦田静馬さんと言う方がいらっしゃいました。
 この芦田さんはレンズの設計の本を最初に書かれて昭和40年頃まではこの種の本はこれ一冊しかなかった神様のような方ですが、この方が顧問として三協にいらして光学技術者として入社した私が1年くらい芦田先生の元でレンズ設計を学ぶチャンスに恵まれました。

 学んだと言っても、机を横に並べて先生は先生で仕事をする。私は横にいて、実際には世間話をしていただけなのです。ですが、それが後になって役に立つのですね。要するに設計屋とはどういう風に物を考えなくてはいけないか、物を書くにはどうしなければならないかというようなことです。
 あとは職人芸を勝手に盗めということなのですね。先生のやっている仕事を後ろで見て真似をする、というのが私のやったことです。私も若かったから吸収力があったのでしょうね。テクニックそのものは自分で本を読んで勉強するしかないのです。

 その後、1964年に保谷硝子に入社しまして、そこで小西六をおやめになって保谷にいらっしゃった近藤文雄さんの下で仕事をするようになったのです。本当に師に恵まれましたね。近藤さんも真似させていただきました。
 先生が亡くなられてからの話ですが、ある客先で話をしていましたら「油さんは近藤さんと話し方がそっくりだね」と言われたことがあります。やはり知らずに真似をしていたのでしょうかね。技術者にとって。’盗む’ということは非常に大事な事だと思いますね。今の技術者教育に一番欠けていることかも知れませんね。

 私は全部で合計4つの会社を変わりましたが、その当時としては異色だったですね。ただ、全てきちんとした理由はあるんです。やはり技術者として自分の成長にふさわしい場所を求めてきたということです。

 1967年に近藤文雄さんと一緒にトプコンに入社しまして、13年間お世話になりました。東京光学は総合メーカーですから、実に色々な経験ができました。カメラから始まって、測量機、医療機とありましたし、光学はこれらの共通部門として存在していましたから全ての製品に関わることができたのです。
 残念ながら、開発担当者として会社の能率優先主義についていけない部分があって最終的に自分で会社を始める決心をするわけです。開発技術というのは、ある意味では人と違ったことをやることですから、能率主義とは本質的に相反するところがあるのです。

 日本能率協会が作った「開発技術者としての物の考え方についてのマニュアル」という発想についていけなかったのです。独創性はマニュアルからは生まれないというのが私の信念ですから。まあ、サラリーマンとして失格者だったとも言えますね。


 その当時手掛けられた製品をご紹介いただけますか。

 その当時のメインはカメラでした。業績はあまり良くありませんでしたが、カメラは光学会社の看板だった時代です。
 あとは測量機がありましたが、そもそも測量機というのは、カメラよりずっと歴史の長い製品ですから基本はすでにできあがっていたのです。光波測距儀という言葉ができて研究を始めたのがその頃ですね。ただ、あの製品は光技術というよりも電気技術に主体性がありますね。

 あとは、医療機ですね。その当時は蛍光眼底測定が現れた時期ですね。あれはいかに微弱な光を測定するかの技術がポイントですね。
 今でも覚えているのは医療現場で動体に使える眼底撮影装置の開発ですが、あの当時は学会の発表ともからんで実に色々な面白い体験をさせてもらいました。
 
 東大の眼科に機械を運び込みまして実験をしたのですが、たまたま妙齢の女性で精神科の患者がいまして、精神科の病気の場合に血液の流れが非常に悪くなるという現象が原因となり脈が無くなる「脈なし病」というのがありまして、それがたまたま開発した装置で発見されました。
 暗幕の向こうでテストしていたら、機械が反応しない。あれ、壊れたかなと思ったら、それが’脈なし病’を初めて連続的に撮影に記録した世界第1号になったのです。
 その翌年の国際眼底学会では私がその発表をするはめになりまして、私としても会社としても初めての経験でしたから大変でした。


 面白いお話ですね。油社長は実に多くの先輩から学んでこられたように思いますが、今油さんご自身が先輩の立場になって感じられることはございますか。

 私、この機会にぜひ申し上げたいことがあるのですが、この業界には実に優れた先輩方がいらっしゃるのです。そういう大先輩の力を今の社会は全くと言っていいほど利用していない。これは実に残念なことです。
 大先輩を利用するということは、何か下請け的に使うと言うのではなくて、企業はそういう大先輩にただ会社にいてもらうだけでいいと私は思うのです。会社にいてもらって、何かと若い人の相談相手になってもらう。業界の大先輩には若い技術者のディスカッションの相手になってもらうことで役立ってもらうことが大切なのです。

 設計のような職人の世界では特に必要なことです。マニュアルではなくて、技術者としての考え方を伝承するのに必要なのです。ただ会社にいてもらうだけで他の何にも変えられない貴重な効果を得ることができますよ。
 今の大企業の開発部門に決定的に欠けているのがそれなのです。

 定年になったら会社の外に出してしまうのではなく、給料は少なくても良いから社内に残ってもらう。それがないから、ここ数十年の間にそれまで伝承されてきた技術者としての大げさに言えば文化や伝統のようなものが途切れてしまっているような気がしてならないのです。
 今のように能率主義やマニュアル主義に依存したやり方では、いずれ企業の技術力に限界が生じてくると思います。

 日本能率協会のやり方というのはある意味では共産党と同じで、まず今の状態を全て壊せという考えなのです。そこで断絶が生じますね。私は、継続は力であり、文化であると思っていますから古い考え方を「悪」と考えないで、古い考え方と共存することを考えないと駄目だと思いますね。
 その点ではまだアメリカの方が先を考えていると思うのですね。物を新しく作り出すという作業には人間の直感が非常に大事だということで、人間教育を進めていますでしょう。

 日本は古いものをとにかく壊そうとする。今の不景気も、マニュアル化されたやり方で物を大量に廉く作っていればいいというような考えが招いたと言えるのではないでしょうかね。
 そういうマニュアル的な考え方はどんどん途上国に移管されていくわけでしょう。日本は必然的に創造的なやりかたで生き残っていかなければならないのですから。人間の頭はまだまだ発達の余地が残っていますし、マニュアルがすべてを解決できると信じることは危険ですね。

 レンズ設計にしても今は非常に良いソフトがありますが、間違えてはいけないのは、秀れたレンズ設計ソフトを使えば誰でも設計ができるということではないといことなのです。
 レンズ設計というのは構成されている要素それぞれの値の組み合わせで収差のバランスを取るということなのですから、要素の数値と収差とが非常に複雑な関係を持っていて、ノンリニアな関係と言いますが、解析的に推し量れないですね。

 計算機でやれる作業というのは、例えば砂漠中の沢山の小さな山のてっぺんを計算することであって、実際に一番高い山を探そうとするとその山のふもとに行かないとわからない。
 どの山が一番高いかを見つけるのは最終的には人間の直観力なのです。この種のことは沢山あります。

 直観力と言うと本能と誤解する人がいますが、私は直観力というのはトレーニングによって磨かれるものだと思います。
 例えば理論的には人間の眼の解像限界は約1分と言われていますが、ライフルの狙撃手などは訓練によって数十秒から数秒まで見分けることが実際にできます。つまり視細胞に当たった光線で読み取っているのではなくて、その前後の変化から予測を行えるようになるからなのです。

 本日は大変に貴重なお話をお伺いしました。日本の光産業の発展に今後も大いにご活躍ください。
 ありがとうございました。